コミュ障でも用務員は務まるのか?(その2)


以前、コミュ障に関する記事を記したが、予想外の反響があった。

その記事の内容をまとめると、最低限のコミュニケーションで用務員の仕事は出来る事を書いた。

しかし、用務員と言う仕事を覚える過程には、コミュニケーションは必要である。

前回は比較的に、コミュ障について肯定的な意見を書いた。

だが、今回は前回の内容から一転し、比較的厳しい内容に終始する事を先に断る。



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用務員の仕事


学校用務員の仕事の幅は広い。

おそらく、他の仕事では体験出来ないはずである。

一般的に、用務員のイメージ的の仕事としては、掃除や茶湯の準備だろう。

しかし、近年は多くの学校用務員の仕事の実態として、校内の設備管理から業者対応まで受け持つ。

また子供への対応から、各教室や教員へのアシスト等だろう。

仕事にキリが無い分、一定の自己のルールの設定も必要になる。

そうしないと、勤務時間が足りなくなるからだ。

そのような仕事の幅を広げるためには、様々な人に教えを受けないといけない。

そのためには、コミュニケーションのスキルは特に大切である。

また、実際の仕事についても状況に応じた取捨選択がいる。

場合によっては短時間に沢山の仕事が集中するからだ。

そんな時、コミュニケーションによって、仕事の采配をする事になる。

通常、用務員は学校に一人または二人勤務が殆どだろう。

よって何を優先させるか、その時の状況を聞きながら段取りも同時に考える事になる。

民間企業の例えで言うなら、SEまたはプロジェクト管理の部分の仕事だ。

もちろん、民間企業の業務とは比べものにならない程、忙しい事はない。

ただ、様々な意見を集約し調整するには変わらない。

そのため、まずは人の話を聞くことになる。

だが、一般的に言われるコミュ障と言う人は、人の話を聞いてない感が強い。

話を記憶出来ないとか、理解出来ないとかではない。

他人に関心が無いのだ。

そのため、優先事項を見誤り、早くしないと困る事を後回しにしてしまった場合、相手から怒られたりする事も多々ある。

俗に言う、空気が読めない行動である。

もちろん、全てに対して空気を読む必要はない。

しかし、自分が受けた仕事に対し、空気が読めないのは組織の中では最悪である。



怒りの理由は結果だけではない


実は空気を読むとは難しいことだ。

何故なら、全般を見る俯瞰力(ふかんりょく)であるからだ。

大きな流れの中で、どのような行動が相手を助けることが出来るかはそれにかかる。

相手によっては、その空気の読めなさにイラつき、辛く当たる場面もある。

コミュ障と言われる者の多くは、それを自身の仕事のミスだと必要以上に考えたり、また相手の指示が悪いと考えたりと、いささか両極端な場合を見る。

だがそのような場合、必ずしも相手の怒りの理由はそれだけでないからだ。


普段の態度が全てである


人はミスをするものである。

しかし、同じミスにしても不思議なもので、許せる相手と許せない相手がいるものだ。

その過程に至るまで、感情は大きく関係するからだ。

大なり小なり、人は感情で反応が違う。

更に、同じ会社に毎日出勤してる同僚でも、様々な家庭のバックグラウンドもある。

そのような理由があるからこそ、対人関係は難しい面もある。

だが、全てを把握は出来ないにしても、多少なりとも普段からのコミュニケーションがあれば、その糸口によって得られる場合もある。



相手を知ること


人は自分対して興味を持つ者に対しては寛大な面がある。

だが、逆に全く知らないと粗暴になりやすい。

よく、駅員を殴ったとかのニュースを見るが、知った相手の場合なら、余程の事がない限り、あまり殴るような事はない。

これはコミュ障に限った話ではないが、人は誰しもそんな面はある。

知らない相手のミスに対しては寛容になりにくいのだ。

相手を理解するには相手への質問が大切である。

質問する能力こそ、コミュニケーションの中でも一番大切なものだ。



人を見下さないこと


コミュニケーションは世渡りの道具であが、コミュ障の多くはどこか人を見下す感がある。

話のレベルが合わないと感じるのかは知らないが、その態度は言葉よりも伝わるものだ。

どんな相手も、必ず優れた面は持つ。

それを素直に感じられないと、自称コミュ障になるのかもしれない。

自称と言ったのは、そのように自分に言い訳をしてるに他ならない。

そもそも、コミュニケーションとは、人と円滑に関わるためのものだ。

それを始めから、「コミュ障」と言う理由で、放棄してるだけである。

その根本は見下しである。



その一方で


話下手のコミュ障の場合、話のネタを続けるのが苦手なことも多い。

話題については深く考えて、更にドン詰まり、そのため余計に自信を失ったりと、マイナスのスパイラルになりやすい。

人に興味がないから、質問も続かないのも当たり前である。

加えて、極度に傷つきやすいのも、自称コミュ障である。

真面目の裏返しだが、相手に良く見られたいとも内心強く思ってると、余計にその傾向は強い。

しかし、どこかでコミュニケーション能力が足りないことに、自分を責めている。

人と違うような気がするのか、落ち着けないのだろう。

だが、本当は責める必要はない。



パーフェクトを目指す??

コミュ症は、どこか完全主義者である。

しかし、本当の完全主義者でもなく、失敗を恐れている。

と、言うよりも怯えている。

何でも数をこなすと失敗するし、数をこなさないと上達もない。

コミュニケーションも同じである。

あなたが、自身をコミュ障と思い、この記事を読んでるのかは知らない。

しかし、自身の内面に向き合うのも、コミュニケーションの一つであるからだ。

コミュ障でも用務員にはなれる。

だが、少なくとも人を見下すような者は、用務員を続けるには不向きだろう。

たかが用務員と思うかもしれないが、コミュ障と自身で思いながら社会に対してのバリアを張ってるだけだからだ。

今一度、自分がどう在りたいか、自身に問うべきだろう。





編集後記


今回は極めて不快な表現もあったので先に謝っておく。

前回の記事での説明不足で、用務員はコミュニケーションが必要ないと勘違いがあった。

再度断るが、人と交わる以上、用務員に限らずコミュニケーションは必要である。

ただ、程度の差はある。

用務員は比較的にコミュニケーションのスキルは問われない。

だが、足りないなら足りないならなりの努力は必要である。

そのような、前向きなスタンスを見せることも、言葉ではないコミュニケーションの一つである。

近年の就活の副作用のためか、トークだけ優秀な連中は増えたが、態度がさっぱりダメなのも少なくない。

最近の人事部でも困ってるようだ。

しかし、そのような連中の話はどうでもよい。

少なくとも、このブログの読者に関しては、そのような連中の真似はではなく、日々の行動と態度で表現して欲しいと思うし、それを評価できない組織や管理職の中で我慢して働く必要はない。

類は友を呼ぶ。

その事を信じ、なりたい自分を目指して頂きたい。


健闘を祈る。




















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